自内証
自らを灯明とし、自らをたよりとして、他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとし、他のものをよりどころとせずにあれ。という釈尊の遺言がある。他にも、カーラーマ経というお経がある。少し長いけど引く。
『世尊よ、ある沙門、バラモンたちがやってきて、彼らは自分の説だけを正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。さらにあるとき、またちがう他の沙門、バラモンたちがやってきて、彼らもまた、自分の説だけが正しいと言い、他の説を罵り、誹り、けなし、無能よばわりいたします。
いったい、だれが誠を語り、だれが偽って語っているのか、という疑いがあります。どうぞ、私たちにだれが正しいのかを教えてください。』
『カーラーマ族の人々よ、あなたがたが疑うのは当然のことである。そして、疑いのあるところに惑いは起こるものである。
あなたがたはある説かれたものを真理として受け取るときに、
- 人々の耳に伝えられるもの、例えば秘伝や呪文、神の啓示などに頼ってはいけない、
- 世代から世代へと伝え承けたからといって頼ってはいけない、
- 古くからの言い伝え、伝説、風説などに頼ってはいけない、
- 自分たちの聖書や教典に書いてあるからといって頼ってはいけない、
- 経験によらず頭のなかの理性(思弁)だけで考えることに頼ってはいけない、
- 理屈や理論に合っているからといってそれに頼ってはいけない、
- 人間がもともと持っている見解等に合っているからというような考察に頼ってはいけない、
- 自分の見方に(見)に合っているからというようなことだけで納得してはいけない、
- 説くものが立派な姿かたちをしているからといって頼ってはいけない、
- 説いた沙門が貴い師であるというような肩書などに誤魔化されてはいけない、
カーラーマ族の人々よ、もしあなたがたが、これは不善である、これは咎を持っている、これは智者によって非難されている、これらの行為は不利益と苦を招くものであると、自分自身で知るならば、あなたがたはそれらのことを捨て去るべきである。』
浄土真宗に生まれたお坊さんが、テーラワーダ仏教と真宗との剥離に苦しんで、浄土真宗は仏教なのか?というタイトルの本を出していたが、浄土真宗は仏教である。
仏教とはなんなのか?という問いに答えはいくつもあるだろうが、僕はその一つに、「自内証」というのがあると思う。
「仏教用語。みずからのうちに体得された真実。真実が他に対して伝えがたいことを表現するとともに,真実はみずから悟らねばならないことを示す言葉。内証ともいう。」
僕は、浄土真宗の信心というのは、信仰というよりも、「悟り」に近いものだと思っている。親鸞聖人も、信心の人の心は如来に等しとか、既に心は浄土に遊ぶ、と仰っている。妙好人の才市も「娑婆で浄土を貰って南無阿弥陀仏」と言っている。
^蓮如上人は、 「弥陀を信じておまかせする人は、 南無阿弥陀仏にその身を包まれているのである」 と仰せになりました。 目に見えない仏のおはたらきをますますありがたく思わなければならないということです。
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南無阿弥陀仏の中に住んでいる。信心のある恋人はそう言っている。弥陀に常に抱きしめられている。そうも言っている。いわゆる「阿弥陀仏」というものを信じているわけではない。ただ、抱かれている。南無阿弥陀仏の中に住んでいる。安心する。
もちろん悟ったわけではない。ただ、「信じる」ということでもない。「阿弥陀の懐で、助けるぞという声が聞こえた」という事だと思う。
自分の痛みが人へ伝えられないように、「阿弥陀の懐住まい」という「自内証」も人へ伝えることができない。ただ、法話で「仏子は仏口から生じる」という言葉があると聞いたことがある。光となった言葉が、心の錆、疑いを払っていく。疑いの錆が全て外れると、自内証的に、弥陀の懐に住むことができる。信心というのは行為でなく状態であり、それは「聞く」という行為によって、自ずから証明することができる。