信心入門

お味わいです

手のひら

 人間は、10歳の頃あたりに「自分とは何か」「なぜ私とは私なのか」「死んだらどうなるのか」という問いを問うようになるらしい。これはほとんどの人に現れるらしいが、9割の人はスポーツなどで発散されるらしい。僕も、友達と遊んだり、ラノベ推理小説を読んだりしていて、「死」の問いは封殺されていたが、16歳の頃に引きこもり始めて、パスカルのいう人間に向いてない唯一の職業「引きこもり」になることによって、裸の実存に晒され、小2のときに襲ってきた死の問いがぶり返してきた。ダメ押ししたのがカミュのシーシュポスの神話と、リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子だった。特に後者の影響は決定的だった。人生には意味も目的もなく、遺伝子が「増えたから増えた」だけ…。

 まごうことなき虚無主義者だった僕は、最新の思想なら何かわかるんじゃないかと思って、ソシュールなどの構造主義や、ラカンなどの精神分析を学んだ。何も分からなかった。1,2年、現代思想を分からないなりに勉強していたが、どうやらどうにもならなそうなので、プラトンから、古典を勉強することにした。ソクラテスの悠々とした自死はヒントになりそうだと思ったが、僕はあんなに知性主義になることはできない。その後もストア主義や近代哲学などを学んだが、結局死の問題は、神に丸投げだった。コメンテーターで仏教徒の宮崎哲也が、「西洋哲学というのは結局キリスト教」と言っていたが、まさにその通りだと思った。ニーチェが出てきて神が死んだらしいが、ニーチェは「汝自身になれ」と古代の神託と同じことしか言っていないし、結局死の問題は解決できていない。ツァラトゥストラかく語りきに「死の説教者」というタイトルの章があるが、「ある者は病気や死人を見て生は論破された!と宣う」みたいなことが書いてあった。けれども「死」の含まれていない思想になんの価値があるのだろうか。スピノザも徹底的に己のエチカ(倫理)から死を排除していて、賢者は死のことを考えない、という定理もある。ニーチェは「死ぬ時期になったら潔く死ね」としか言っていない。ハイデガーも死の分析が有名だが、結局「死を先駆けることによってかけがえのない"己"が析出され、全ての有象無象の可能性を捨て去ることができる」程度のことしか言っていない。自分の「有限性」を自覚することで、人生に「ハリ」ができるというのはそんな大仰に哲学で言うことだろうか?その意味で、やはりシオランが一番誠実だとは思う。神を捨てた人間は、全員シオランになるのが本当だと思う。

 6年ほど哲学をして、埒が明かないので、仏教に興味を持った。最初は合理的なテーラワーダ仏教に興味を持ったが、「解脱すれば全てが無我だということが悟られて、死ぬ主体もなくなるから死なない」というのはニヒリズムではないか、と思った。テーラワーダの書籍はほとんど読みつくして、瞑想会にも参加したりした。タイの寺に出家しているお坊さんと面談して「死ぬのが怖い」と言ったら、「今ここでは死んでいないのだから、今ここに留まって恐怖のイメージを作らないといい」と言われた。それは逃避じゃないのか、と思った。

 禅も勉強したが、僕に出家できるわけもなく、却下。結局浄土真宗に落ち着いた。家が天台宗の檀家なので、真宗のことは何も知らなかったから、独学でいろいろ勉強した。本も死ぬほど読んだ。信心が大切だということが分かった。けれども信心が頂けない。僕が2年ほど真宗の信心が頂けずに苦しんでいるのに、あとから真宗を学んだ恋人は数か月で信心を頂いていた。この恋人の言葉がありがたかった。信心の人の言葉は、仏の言葉であると思う。

「もうすでに救われているんだよ、それに気づいてないだけ」

「生まれたときからずっと抱きしめられてたんだよ」僕は、ここで自分の運動会の思い出や、蟻をひたすら観察していた思い出、母親の葬式の思い出を思い出した。ずっとそばにいてくれたんだ…。

「人間如きが何かわかるわけないじゃん、君は人間の世界では賢いかもしれないけど、人間なんて仏から見たら本当に愚かだよ」そうだった…。本当にそうだった。人間如きに何かが分かるわけなかった。

 

 そして、僕は今阿弥陀の光の中にいる。いや、最初からいたのだと思う。小2の時、死に気づいて絶望したとき。母親が参観日に来なくて泣いてた日。友達と鬼ごっこをしていた日。手術を8回ほどした17歳の不安な夜。母親が癌で死んだ日。そして、今。

 お釈迦様と孫悟空が対決する話がある。孫悟空は世界の果てまで行って見せるという。そして世界の果てにある柱に印を残す。お釈迦様の元に戻って、どうだい、というと、お前が言った印というのはこれか、と言って、印が書いてある人差し指を見せる。僕が必死に哲学をしていたときも、すでに手のひらの上だったのだ。必死に瞑想してるときも手のひらの上だったのだ。何も見つける必要はなかったのだ。どこにも行く必要はなかったのだ。ありがとう、ありがとう。南無阿弥陀仏