信心入門

お味わいです

二つの仮説

 信心というのは信楽ともいい、原語は「チッタ・プラサーダ」である。サンスクリット語で「澄んだ心」という意味らしい。しかし凡夫の心にそんなものはない。だから阿弥陀如来から回向されるという。

 道元禅師の言葉に、「放てば手に満てり」という言葉がある。手を広げれば、全てが満ちている。浄土真宗がなにを放つのかと言えば「疑い」を放つのであって、疑いを捨てれば手に満てる。心に満ちる。

 

 明治時代の真宗の本に、世界は「仁」で満ちていると書かれてあった。そしてそれを体得した人が聖人であって、孔子などがその筆頭らしい。けれども凡夫にそんなことはできない。

 宇宙は見えない慈悲で満ちている。「疑い」を「放つ」と心に慈悲が満ちてくる。その「慈悲の働き」を「阿弥陀仏」というのであって、阿弥陀仏という仏がいるのではない。阿弥陀仏は、宇宙中に満ちている慈悲の働きに仮に名前を付けたものである。

 

①宇宙に慈悲が満ちているという仮説

②疑いが晴れれば心に慈悲が満入してくるという仮説

 

 この仮説を受け入れられるならば、求道できると思う。ただ、②の仮説を実験しないと、①は分からないし、①が分からなければ、②の態度で求道できない。循環している。

 ただ、この南無阿弥陀仏は地球上だけでも2000年の歴史がある。その間に先駆者が何人もいて、救われてきた。じゃないと「ナムアミダブツ」なんてなんの意味もない言葉はとっくに廃れていただろう。

 

 僕の体験上から言っても、①も②も本当である。僕は最近信心と悟りとはほとんど同じじゃないかと思えてきた。主観的事実で、他人に伝えることはできない。ただし「マジ」だ。仮説を実験していくのは面白いよ。