信心入門

お味わいです

どうにもならない

一休さんにこういう逸話がある。


 一休さんは亡くなるときに一通の封書を寺の弟子たちに残しました。  「この先、ほんとうに困ることがあったら、これを開けなさい」と言い遺しました。  何年かたって、寺に大変な難問題が持ち上り、どうしようもないので、弟子たちが集まって、その封書を開いてみると、そこには「しんぱいするな、なんとかなる」  と書いてありました。  とたんに弟子たち一同、大笑いの内に落ちつきと勇気と明るさを取戻し、難しい問題を解決できた、という話です。

 

 僕は禅と念仏は裏と表の関係にあると思っているんだけれど、南無阿弥陀仏もたしかに「心配するな」という阿弥陀仏の呼び声である。けれども、念仏にはそのようなものに回収できない何か悲哀のようなものを感じる。

 法蔵菩薩は、途方もない昔に、全ての世界を見た。そしてこの娑婆世界を見たときは、「これはもうどうにもならない」と思ったんじゃないだろうか。無量寿経三毒五悪段というのがあるが、まさにあの通りだ。どうにもならない。僕は最近鬱気味で、体調も悪く、ずっと布団にこもっているのだけれど、本当にどうにもならない。なんとかならない。大切な人も死んだ。なんとかならない。どうにもならない。

 僕は禅は「なんとかなる」の楽天的宗教であるけれど、念仏は「どうにもならない」の悲哀の宗教であると思う。生老病死。どうにもならない。念仏したら儲かるのか?病気が治るのか?どうにもならない。でも念仏せざるをえない。悲哀の一滴が念仏であり、そこに大悲の一滴もあると思う。

 まだまだ僕は若造だけれど、人生はどうにもならないことが多いなあ、と思う。念仏したらどうにかなるのか?どうにもならない。でもどうにもならないことを僕の骨の髄まで知ってくれている阿弥陀仏がいる。「どうにもならない」運命論的な諦めみたいだけれど、それが実相なのだと思う。今の僕には念仏というのは僕の悲哀と弥陀の大悲であると感じる。法蔵菩薩が、この「どうにもならない僕の人生」を永遠の昔に全て「見た」。人生が全て知られているというのは根底からの救いであると思う。今日の僕の念仏は、ため息混じりの念仏だ。はあ、南無阿弥陀仏