信心入門

お味わいです

信じない

 阿弥陀仏は「そのまま救う」という。だから僕は「このまま」生きる。そのままで助けるというから、このまま生きていることを、信仰というのだろうか?

 浄土真宗では聞即信と言われる。この聞が仏願の生起本末を指してるのか南無阿弥陀仏を指してるのか知らないけど、まあとにかく、阿弥陀仏がこのまま助けてくれることを聞く。聞いてどうするか?何もしない。強いて言えば念仏をする。

 無宗教の人と、信者の違いは、「聞いたかどうか」にあるかにすぎない。疑いなく聞いたまま、生きるだけ。そのまま。

 

 心の中を見ても、何も信仰らしきものはない。仲の良い同行は何もなさ過ぎて、逆に信心があるのか不安になっていた。「南無阿弥陀仏」以外に信心はない。南無阿弥陀仏という呼び声をそのまま聞くのが信心で、心のうちに「信じる心」というのはできない。

 

 そのまま救うというからこのまま生きる。

 

 生けらば念仏の功つもり 死なば浄土へまいりなん とてもかくてもこの身には 思いわずらうことぞなき と思いぬれば 死生共にわずらいなし

無限を知る

 人間は「比較」することでしか判断することができない。私はあの人よりはいい人だ、あの人よりは悪い人だ。

 

 聴聞を心がけると、自分の浅ましさが知れてくると本に書いてあり、それは「聴聞で煩悩煩悩言われるからそう思うだけじゃないのか」と思っていたけれど、そうじゃなかった。仏智の鏡に照らされるなどとも表現されるけれど、「絶対的にいい人」である仏の話を聞いていくうちに、自分の悪性が知れていくのだと思う。あの人よりは良い人であると思っていたが、絶対の良い人である仏に比べたら極悪人だ。

 

 無限を知ると、有限な自分が知られる。有限な自分が知られるとは、謙虚になることだ。頭が下がることだ。「無限」の話は聞いたほうがいい。

二つの仮説

 信心というのは信楽ともいい、原語は「チッタ・プラサーダ」である。サンスクリット語で「澄んだ心」という意味らしい。しかし凡夫の心にそんなものはない。だから阿弥陀如来から回向されるという。

 道元禅師の言葉に、「放てば手に満てり」という言葉がある。手を広げれば、全てが満ちている。浄土真宗がなにを放つのかと言えば「疑い」を放つのであって、疑いを捨てれば手に満てる。心に満ちる。

 

 明治時代の真宗の本に、世界は「仁」で満ちていると書かれてあった。そしてそれを体得した人が聖人であって、孔子などがその筆頭らしい。けれども凡夫にそんなことはできない。

 宇宙は見えない慈悲で満ちている。「疑い」を「放つ」と心に慈悲が満ちてくる。その「慈悲の働き」を「阿弥陀仏」というのであって、阿弥陀仏という仏がいるのではない。阿弥陀仏は、宇宙中に満ちている慈悲の働きに仮に名前を付けたものである。

 

①宇宙に慈悲が満ちているという仮説

②疑いが晴れれば心に慈悲が満入してくるという仮説

 

 この仮説を受け入れられるならば、求道できると思う。ただ、②の仮説を実験しないと、①は分からないし、①が分からなければ、②の態度で求道できない。循環している。

 ただ、この南無阿弥陀仏は地球上だけでも2000年の歴史がある。その間に先駆者が何人もいて、救われてきた。じゃないと「ナムアミダブツ」なんてなんの意味もない言葉はとっくに廃れていただろう。

 

 僕の体験上から言っても、①も②も本当である。僕は最近信心と悟りとはほとんど同じじゃないかと思えてきた。主観的事実で、他人に伝えることはできない。ただし「マジ」だ。仮説を実験していくのは面白いよ。

 

どうにもならない

一休さんにこういう逸話がある。


 一休さんは亡くなるときに一通の封書を寺の弟子たちに残しました。  「この先、ほんとうに困ることがあったら、これを開けなさい」と言い遺しました。  何年かたって、寺に大変な難問題が持ち上り、どうしようもないので、弟子たちが集まって、その封書を開いてみると、そこには「しんぱいするな、なんとかなる」  と書いてありました。  とたんに弟子たち一同、大笑いの内に落ちつきと勇気と明るさを取戻し、難しい問題を解決できた、という話です。

 

 僕は禅と念仏は裏と表の関係にあると思っているんだけれど、南無阿弥陀仏もたしかに「心配するな」という阿弥陀仏の呼び声である。けれども、念仏にはそのようなものに回収できない何か悲哀のようなものを感じる。

 法蔵菩薩は、途方もない昔に、全ての世界を見た。そしてこの娑婆世界を見たときは、「これはもうどうにもならない」と思ったんじゃないだろうか。無量寿経三毒五悪段というのがあるが、まさにあの通りだ。どうにもならない。僕は最近鬱気味で、体調も悪く、ずっと布団にこもっているのだけれど、本当にどうにもならない。なんとかならない。大切な人も死んだ。なんとかならない。どうにもならない。

 僕は禅は「なんとかなる」の楽天的宗教であるけれど、念仏は「どうにもならない」の悲哀の宗教であると思う。生老病死。どうにもならない。念仏したら儲かるのか?病気が治るのか?どうにもならない。でも念仏せざるをえない。悲哀の一滴が念仏であり、そこに大悲の一滴もあると思う。

 まだまだ僕は若造だけれど、人生はどうにもならないことが多いなあ、と思う。念仏したらどうにかなるのか?どうにもならない。でもどうにもならないことを僕の骨の髄まで知ってくれている阿弥陀仏がいる。「どうにもならない」運命論的な諦めみたいだけれど、それが実相なのだと思う。今の僕には念仏というのは僕の悲哀と弥陀の大悲であると感じる。法蔵菩薩が、この「どうにもならない僕の人生」を永遠の昔に全て「見た」。人生が全て知られているというのは根底からの救いであると思う。今日の僕の念仏は、ため息混じりの念仏だ。はあ、南無阿弥陀仏

願い

 宗教の本質は「祈り」であるという人がいる。確かに日本人の宗教観の基礎になっている神道キリスト教は祈りを中心に据えている。ただ浄土真宗は、人間は祈らない。ただし祈りはある。誰が祈るのか?阿弥陀仏が祈るのである。誰に祈るのか?十方衆生、つまりあなたや僕に祈っているのである。親鸞の言葉で言えば「他力回向」や「本願成就」「本願召喚の勅命」がそれにあたると思う。

 僕はこれは浄土真宗でもあまり強調されない点であるけれど、宗教におけるコペルニクス的転回だと思う。僕たちが「助けてください」と祈るのではなくて、宇宙が「助けさせてくれ」と祈っているのである。祈りは目に見えない。ただし感じることはできる。人間を、「理性のある存在」「死すべき存在」「道具を使う存在」などと定義することがあるが、人間は根本的に「願われている存在」なんじゃなかろうか。

 親は子供にいい学校へ行って欲しいと願う。嫌いな上司に死んでほしいと願う。みんな願い、願われながら生きている。宇宙の根本意志は、「可愛い子供たち、みんな仏になってくれよ」と願っている。信心とは、阿弥陀仏のこの願いに気づくことだ。

 

 今、飼っている猫が、肩を舐めている。お前も願われている存在なんだよ、と思うと、優しくなれる。今日は久々に病院で外へ出たが、みんな、願われている存在なのだと思うと、何気なく歩いている人や、働いている人が、愛おしく思えた。

 

 愛憎、煩悩、疑い、様々な汚いもので溢れている娑婆は、本当は願いの光で満たされていたのだ。理性の前に、死の前に、道具の前に、遊ぶ前に、願われている。人間の根本条件というのは願われているということなんじゃないだろうか。

手のひら

 人間は、10歳の頃あたりに「自分とは何か」「なぜ私とは私なのか」「死んだらどうなるのか」という問いを問うようになるらしい。これはほとんどの人に現れるらしいが、9割の人はスポーツなどで発散されるらしい。僕も、友達と遊んだり、ラノベ推理小説を読んだりしていて、「死」の問いは封殺されていたが、16歳の頃に引きこもり始めて、パスカルのいう人間に向いてない唯一の職業「引きこもり」になることによって、裸の実存に晒され、小2のときに襲ってきた死の問いがぶり返してきた。ダメ押ししたのがカミュのシーシュポスの神話と、リチャード・ドーキンス利己的な遺伝子だった。特に後者の影響は決定的だった。人生には意味も目的もなく、遺伝子が「増えたから増えた」だけ…。

 まごうことなき虚無主義者だった僕は、最新の思想なら何かわかるんじゃないかと思って、ソシュールなどの構造主義や、ラカンなどの精神分析を学んだ。何も分からなかった。1,2年、現代思想を分からないなりに勉強していたが、どうやらどうにもならなそうなので、プラトンから、古典を勉強することにした。ソクラテスの悠々とした自死はヒントになりそうだと思ったが、僕はあんなに知性主義になることはできない。その後もストア主義や近代哲学などを学んだが、結局死の問題は、神に丸投げだった。コメンテーターで仏教徒の宮崎哲也が、「西洋哲学というのは結局キリスト教」と言っていたが、まさにその通りだと思った。ニーチェが出てきて神が死んだらしいが、ニーチェは「汝自身になれ」と古代の神託と同じことしか言っていないし、結局死の問題は解決できていない。ツァラトゥストラかく語りきに「死の説教者」というタイトルの章があるが、「ある者は病気や死人を見て生は論破された!と宣う」みたいなことが書いてあった。けれども「死」の含まれていない思想になんの価値があるのだろうか。スピノザも徹底的に己のエチカ(倫理)から死を排除していて、賢者は死のことを考えない、という定理もある。ニーチェは「死ぬ時期になったら潔く死ね」としか言っていない。ハイデガーも死の分析が有名だが、結局「死を先駆けることによってかけがえのない"己"が析出され、全ての有象無象の可能性を捨て去ることができる」程度のことしか言っていない。自分の「有限性」を自覚することで、人生に「ハリ」ができるというのはそんな大仰に哲学で言うことだろうか?その意味で、やはりシオランが一番誠実だとは思う。神を捨てた人間は、全員シオランになるのが本当だと思う。

 6年ほど哲学をして、埒が明かないので、仏教に興味を持った。最初は合理的なテーラワーダ仏教に興味を持ったが、「解脱すれば全てが無我だということが悟られて、死ぬ主体もなくなるから死なない」というのはニヒリズムではないか、と思った。テーラワーダの書籍はほとんど読みつくして、瞑想会にも参加したりした。タイの寺に出家しているお坊さんと面談して「死ぬのが怖い」と言ったら、「今ここでは死んでいないのだから、今ここに留まって恐怖のイメージを作らないといい」と言われた。それは逃避じゃないのか、と思った。

 禅も勉強したが、僕に出家できるわけもなく、却下。結局浄土真宗に落ち着いた。家が天台宗の檀家なので、真宗のことは何も知らなかったから、独学でいろいろ勉強した。本も死ぬほど読んだ。信心が大切だということが分かった。けれども信心が頂けない。僕が2年ほど真宗の信心が頂けずに苦しんでいるのに、あとから真宗を学んだ恋人は数か月で信心を頂いていた。この恋人の言葉がありがたかった。信心の人の言葉は、仏の言葉であると思う。

「もうすでに救われているんだよ、それに気づいてないだけ」

「生まれたときからずっと抱きしめられてたんだよ」僕は、ここで自分の運動会の思い出や、蟻をひたすら観察していた思い出、母親の葬式の思い出を思い出した。ずっとそばにいてくれたんだ…。

「人間如きが何かわかるわけないじゃん、君は人間の世界では賢いかもしれないけど、人間なんて仏から見たら本当に愚かだよ」そうだった…。本当にそうだった。人間如きに何かが分かるわけなかった。

 

 そして、僕は今阿弥陀の光の中にいる。いや、最初からいたのだと思う。小2の時、死に気づいて絶望したとき。母親が参観日に来なくて泣いてた日。友達と鬼ごっこをしていた日。手術を8回ほどした17歳の不安な夜。母親が癌で死んだ日。そして、今。

 お釈迦様と孫悟空が対決する話がある。孫悟空は世界の果てまで行って見せるという。そして世界の果てにある柱に印を残す。お釈迦様の元に戻って、どうだい、というと、お前が言った印というのはこれか、と言って、印が書いてある人差し指を見せる。僕が必死に哲学をしていたときも、すでに手のひらの上だったのだ。必死に瞑想してるときも手のひらの上だったのだ。何も見つける必要はなかったのだ。どこにも行く必要はなかったのだ。ありがとう、ありがとう。南無阿弥陀仏

裏切り

 人生は裏切る。釈尊はそういった。一切皆苦。苦とは元々は「ドゥッカ」と発音される言葉で、「思い通りにならない」ということだ。思い通りにならないということは、裏切られるということだ。
 他人は裏切る。そんなのは当たり前だ。何回裏切られたか分からない。それはここでは問題にしない。当たり前すぎるから。
 人生は裏切る。自己も裏切る。生まれてきたくなかったのに生まれた。老いたくないのに老いる。病気になりたくないのに病床につく。死ぬ。僕は死は最大の裏切りだと思う。何かの本に、ペットをなくした青年が「死っていうのは、やはり一つの裏切りですよ」と言ったと書いてあった。僕も母親が死んだ。愛別離苦だ。でも、裏切りの最たるものは、自己の死であると思う。僕は死にたくない。本当に死にたくない。死にたくない!
 
 「宇宙」は裏切らないことを知った。それが信仰である。一切のものは裏切る。自分ですら自分を裏切る。でも「宇宙」は裏切らない。「裏切らない」というのは「そばにいる」という事だと思う。人を殺しても側にいる。アル中になっても側にいる。「宇宙」は僕を裏切らない。人生における最大の裏切りである「死」さえも、宇宙は裏切らない。死なない。宇宙は愛に満ち溢れている。愛は目に見えない。「疑い」という「常識」「猿知恵」を外せば、宇宙が心に満入する。僕はこれは本当に不思議な事実であると思う。大無量寿経という霊性的な物語に対する計らいをなくせば宇宙が裏切らなくなる。なぜだろう?疑いがなくなっただけなのに、喜びと安心が湧いてくる。裏切らないものは、宇宙しかない。絶対に裏切らない、大きな存在がある。どこに?宇宙全部、もしくは心の中。自分を裏切らないものを知る。宇宙に満ち満ちている愛を知ることが人生にイエスということだと思う。

 疑いがなくなっただけなのに、なんでだろう?宇宙の裏切らない愛を僕が裏切り続けていたのだと思う。