信心入門

お味わいです

願い

 宗教の本質は「祈り」であるという人がいる。確かに日本人の宗教観の基礎になっている神道キリスト教は祈りを中心に据えている。ただ浄土真宗は、人間は祈らない。ただし祈りはある。誰が祈るのか?阿弥陀仏が祈るのである。誰に祈るのか?十方衆生、つまりあなたや僕に祈っているのである。親鸞の言葉で言えば「他力回向」や「本願成就」「本願召喚の勅命」がそれにあたると思う。

 僕はこれは浄土真宗でもあまり強調されない点であるけれど、宗教におけるコペルニクス的転回だと思う。僕たちが「助けてください」と祈るのではなくて、宇宙が「助けさせてくれ」と祈っているのである。祈りは目に見えない。ただし感じることはできる。人間を、「理性のある存在」「死すべき存在」「道具を使う存在」などと定義することがあるが、人間は根本的に「願われている存在」なんじゃなかろうか。

 親は子供にいい学校へ行って欲しいと願う。嫌いな上司に死んでほしいと願う。みんな願い、願われながら生きている。宇宙の根本意志は、「可愛い子供たち、みんな仏になってくれよ」と願っている。信心とは、阿弥陀仏のこの願いに気づくことだ。

 

 今、飼っている猫が、肩を舐めている。お前も願われている存在なんだよ、と思うと、優しくなれる。今日は久々に病院で外へ出たが、みんな、願われている存在なのだと思うと、何気なく歩いている人や、働いている人が、愛おしく思えた。

 

 愛憎、煩悩、疑い、様々な汚いもので溢れている娑婆は、本当は願いの光で満たされていたのだ。理性の前に、死の前に、道具の前に、遊ぶ前に、願われている。人間の根本条件というのは願われているということなんじゃないだろうか。