信心入門

お味わいです

実験

 みな、死後は無だと言う。僕はこういう人たちは、戦中に生まれていれば優れた軍人になっていただろうし、イスラム教国へ生まれれば、毎日きっちり6回礼拝していたと思う。科学精神がないのだ。実験精神がないのだ。ニーチェは、自分の生は認識であるといった。僕も、自分の生は認識でありたいと思っている。僕は時代精神というものに飲まれて絶望するような人間にはなりたくない。

 チベットの高僧、ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェは、著書の中で、科学者と関わっていると仏教がいかに科学的であるかということを思い知らされると書いている。仏教とは自分の身体を使った「実験」である。こういう瞑想を入力したら、こういうデータが出力されるよ、というのを自分の身体を使って追体験するのが、仏教である。だからチベット密教をすれば、チベット密教の主観的データが得られるし、公案を透過すれば、臨済禅の主観的データが得られる。科学と決定的に違うのは「主観的」なデータだということだ。科学は誰でも追検証可能なもののみを扱う。座禅を1日に何時間もするのは普通の人は検証不可能だ。

 僕は、生の認識者である。だから、信仰というものを実験しようと思った。そうしたら、お経やお聖教に書かれている主観的データが出力された。このデータがなんなのかはこのブログにおいおい書いていこうと思うが、僕は人生とは、認識、実験の「素材」であると思っている。その世界に飛び込んでみないと分からないものがたくさんある。実験もしていないのに、あれこれ言うのはお門違いだと思う。

 

 人生は実験の素材である。僕は「死」のみに興味があるので、死を解決する信仰を実験した。すると親鸞と同じ主観的体験が得られた。死後は無だと、なんの実験もなく嘯いている人は実験精神がない。人生は、冒険や。